2023人間ドックの後に

昨年、二〇二三年の十一月に、私は人間ドックを受けた。

何もかもいつも通りだったが、胃カメラ検査だけが違った。

「胃は終わりましたから、これから食道を見ながら抜いていきますね」という看護師さんの言葉の後、しばらくして先生が仰った。

「気になるものがあるので生検に回します」

先生のこの言葉が時間と共に重くのしかかってきたのだった。

     

私は曲がりなりにも臨床検査技師として、血液検査に長らく携わっていた。

顕微鏡で赤血球や白血球を分類する検査があるが、「正常ではない」ということは概ねわかるものなのである。

そういった経験から、「見ればある程度わかるんじゃないか?」と考えたのだ。

「念の為に」ではなく、「気になるものがある」ということは、「異常だと思われるものがある」ということではないのか。

それからは、石が転がるように、あらゆることを悪い方へ悪い方へと考えていった。

      

胃カメラ検査の時、私はモニターを見ていた。だがカメラが食道の辺りを通る時に、看護師さんがモニターの角度を変えて「少し下を向いてくださいね」と私の頭を下に向けた。私からモニターが全く見えなくなった。それは、素人が見てもわかるほどの病変があったからなのではなかったか。

食事は全く喉を通らない。食べようとするとムカムカと悪心がする。好きなベビーカステラの匂いも、気持ち悪くなるだけだった。

体重も日に日に減ってきた。何百グラムという単位ではあるが、量る度に減っていく。

肩や背中の凝りだと思っていた痛みも、何かがあるからじゃないかと思う。

そういえば義父は人間ドックから三ヶ月後に「膵臓がん」で亡くなった。実父も実母も「がん」ができた。「余命イクバク……」という言葉が頭の片隅にたなびく。

不安で不安で身体中が「不安」という流れない体液で浮腫み、身体自体が自分のものではないように感じた。気持ちは身体の外側にあって心身がチグハグに感じていた。その感覚をこれまた何かのせいにしか思えなかった。

     

そんな気持ちと並行してやったことは、インターネットで食道の病変などについて検索したことである。

以前にテレビで「命に関わることは、ネット検索してはいけない」と、ネット世界に詳しい方が仰っていたのを覚えているが、気になって気になって検索が止められない。

見るもの全てを、「これじゃないか」と思ってしまう。

腫瘍は寝ている間に転移するという最新の研究報告を見たことがあり、眠ることも最低限にしようと頑張った。

実家の氏神さん、今の家の氏神さんなど、何ヶ所か神頼みをして回った。

ずっと不安のおおもとである「がん」という言葉は使わなかった。神さんに御願いする時も、それを言葉にはしなかった。

結果が出る前の混沌とした状態で、はっきりと言葉にすれば、それが顕現するような気がしたのである。

      

なにをどうしても、不安に窒息しそうになっていった。

重くのしかかるこの不安を、そのままにしていては、どんなに健康な人間も病気になるんじゃないか。あまりにも尋常ではない精神状態になっている。

そう考えられるようになって、検査してから五日後にかかりつけ医に行った。

「人間ドックで胃カメラ検査をしてからこんな状態なんです」

助けて。

涙ながらに訴えた。

先生は「その不安が心配やな。胃の動きをよくする薬と、不安を和らげる薬を出しておきましょう」と、薬の処方をしてくれた。

すると、なんということでしょう!

何日かそのお薬を飲むと、食欲は戻り、「不安」は小さな塊になった。 

得体の知れない気体状の「不安」が、固体になったのだ。

       

検査から三週間後に、「良性」との結果が届いた。「腫瘍(良性)」とあり、精密検査を受けるようにという判定だった。

精密検査の担当医は、ドックの画像を見るなり「炎症やなあ。もちろん精密検査はしておきましょう」と仰った。結果は「炎症系」だそうだ。フォローも今まで通り年に一回でよいとの判断だった。

人間ドックの胃カメラの先生が「気になるものがあるので」と仰ったが、これが「念の為に」という言い方であったら、これほどまでに気に病むことはなかったかもしれない。

そう思うのである。

                              (了)  2024.02.27投稿

薄紫の後ろ姿

 

夏になると思い出す光景がある。

昭和五十年代のある夏の日の午後、家に泊まった大叔母(父方の祖母の妹)が玄関の前の階段を降りたところで私に手を振って帰る後ろ姿である。

大叔母は絽だったか紗だったかの薄い紫の着物を涼しげに着て、日傘をさして近くのバス停に向かって行った。

高校生くらいだった私は、こんなに暑いのに涼しそうに着物を着てカッコええなあ、と憧れた。

そのシャンと背を伸ばした薄紫の、凛とした後ろ姿が、今も心のアルバムにしっかりと貼られている。

 

父方の祖母は、私が一歳になる前に亡くなったので、その大叔母が祖母のような存在だった。親たちは「山ノ内」と言っていたので、私は「山ノ内のおばちゃん」と呼んでいた。小さい頃は「山ノ内」というのが大叔母の苗字だと思っていたが、京都市の山ノ内に住んでいたからなのだった。

明治生まれの彼女は、太平洋戦争で夫(私の祖父の弟、つまり兄弟の兄と姉妹の姉、弟と妹がそれぞれ結婚したのである)を亡くし、子どももいなかった。そのためか甥にあたる父とその家族である私たちの家(宇治市)によく泊まりがけで遊びに来ていた。

彼女の生計はお針である。着物の仕立てと、何人かお弟子さん(お針子さん)を持っていた。私の「十三参り」の着物も、彼女に仕立ててもらったものだ。

彼女の家は長屋風で大きくはなかったが、玄関を入ると奥に向かって土間が続いていて、右側には座敷が並んでいた。いわゆる京都の「うなぎの寝床」である。土間を座敷ひとつ分歩くと簡単な戸があり、開けると台所になっていた。私たちはいつもそこから座敷に上がった。

母は「まち針がよう落ちてたから、あんたが怪我しぃひんか思て」と、私が小さい頃は気になっていたそうである。

私が高校生になった頃には、大叔母は宇治市の病院に通っていた。

一緒に食事をしても、あと一口、お箸の先にちょこんと乗るくらいのご飯が食べられないと言って残すことが多くなった。

そんな時、母からおばちゃんがガンだと聞かされた。その後入院して、そしてとうとう帰らなかった。

母はよく尽くしていたと思う。こまめに病院に行き、身の回りのことを手伝っていた。

私も母に付いて何度かお見舞いに行ったはずだが、その頃の記憶はほとんどない。よく覚えているのは、あの夏の日の午後に、手を振って帰る後ろ姿なのである。

考えればその頃にはもう既にガンが見つかっていて、治療中だったはずだ。おばちゃんからは「痛い」「苦しい」「しんどい」などそんな言葉は一度も聞いたことはなかった。

一人暮らしでさぞ心細かったことだろうと思う。一人で痛みに耐えた夜も何度もあったろう。

だが私にはそんな姿ではなく、盛夏の昼下がりに着物を涼しげに着て、シャンと背筋を伸ばした薄紫の立ち姿を残してくれた。

 

「明治の女は凄いなあ」と思っている。

夫を亡くし、子どももおらず、甥の家に泊まりにいくことがあるとはいえ、何十年も一人で暮し、ガンになっても入院する以外は一人暮らしをしていた……。

私がそうなったらきっと「痛い〜」「しんどい〜」とすぐ音を上げるに決まっている。

それでも「山ノ内のおばちゃん」の盛夏の着物姿のように、できる限りシャンと背筋を伸ばして生きていきたいと思う今日この頃である。

(了)

 

 

春に思うこと

 

春である。

春は落ち着かない。

眠っていた自然が目を覚まし、生命輝く季節。

花粉症についてはさて置くとして、花は咲き乱れ、鳥たちは歌い、木々は力強く芽吹き、明るくなっていく。浮かれるなというほうがムリなのだ。

ただ私の場合、浮かれるのと同じ大きさで、反対方向にもベクトルが向くのである。

ウキウキするのと同時に、どこか哀しくて気が沈む感じもするのである。それを自覚したのは中学生の頃だった。

その頃、私は詩を書いていた。桜や春などはよく使うモチーフだったが、「春」は何か心許ない感覚が付きまとい、哀しみや闇など暗いイメージの詩を作っていた。春の陽光の輝きを、そのまま素直に表すということは思いもしなかった。

大人になってからもその感覚は変わらなかった。それはたぶんその感覚が、思春期独特の心の不安定さというような一時的なものではなかったからだと思っている。

この感覚について、大人になってから思いついたことがあった。

[ ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん ]

ご存知のとおり、紀友則の歌である。

なんとなくこの歌のイメージに重なると気づいたのである。

明るいのどかな春の日差しの中(うきうきと気持ちが上がる中)、どうしてそんな気持ちを満喫することなく、はらはらと(風もないのに)散り急ぐのか。

なぜ落ち着いていないのか、と諌めるようなニュアンスではなく、散り急がないでくれ、と祈るような、惜しむ気持ちである。

私にとって「春」イコール「しづ心なく花の散るらん」なのだ。

だから、浮かれるのと同じ大きさで、反対方向にもベクトルが向くのだろう。

そんな風に大人になってからは思ってきた。

 

だが、二十二年前のある日、私は突然に解ったのである。私がなぜ春を素直に謳歌できず、哀しいなどと感じてしまうのか。

二十二年前の四月半ば、桜の花とともに父が突然六十九歳で逝ってしまった。

父とは夜遅くにビールとうどんという不思議な組み合わせで、形而上学的な話からくだらない話まで、いろいろによく語り合った。

運命論者というわけではないが、父を見送りながら、ああ、そうだったのか、と私自身はとても深く納得したのである。

そんなことが中学生の頃からわかっていた訳ではもちろんない。この説明は人様には奇異に受け取られるのだろう。ただのこじつけだろうと笑われるのだろう。

だが私には、ストンと腑に落ちたのだ。

こういうことが起こると決まっていたので、分子や原子のレベルでそれを感じて「春は哀しい」という感覚を持っていたのだ。

 

それに気づいた時に、もうひとつ思い当たることがあった。

私自身に記憶はないが、私が一歳の誕生日を迎える前の春に、父の母―祖母―が亡くなっている。

祖母は、親戚や近所の人達にとても慕われていたそうだ。そんな祖母を見送った人たちの想いが、まだ生後4ヶ月余りの私のあらゆる細胞に「哀しみ」として染み込んだのかもしれない。

そんな風にも考えるのである。

私にとって春は、「哀しくうきうきする季節」であり、落ち着かない。