春に思うこと

 

春である。

春は落ち着かない。

眠っていた自然が目を覚まし、生命輝く季節。

花粉症についてはさて置くとして、花は咲き乱れ、鳥たちは歌い、木々は力強く芽吹き、明るくなっていく。浮かれるなというほうがムリなのだ。

ただ私の場合、浮かれるのと同じ大きさで、反対方向にもベクトルが向くのである。

ウキウキするのと同時に、どこか哀しくて気が沈む感じもするのである。それを自覚したのは中学生の頃だった。

その頃、私は詩を書いていた。桜や春などはよく使うモチーフだったが、「春」は何か心許ない感覚が付きまとい、哀しみや闇など暗いイメージの詩を作っていた。春の陽光の輝きを、そのまま素直に表すということは思いもしなかった。

大人になってからもその感覚は変わらなかった。それはたぶんその感覚が、思春期独特の心の不安定さというような一時的なものではなかったからだと思っている。

この感覚について、大人になってから思いついたことがあった。

[ ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん ]

ご存知のとおり、紀友則の歌である。

なんとなくこの歌のイメージに重なると気づいたのである。

明るいのどかな春の日差しの中(うきうきと気持ちが上がる中)、どうしてそんな気持ちを満喫することなく、はらはらと(風もないのに)散り急ぐのか。

なぜ落ち着いていないのか、と諌めるようなニュアンスではなく、散り急がないでくれ、と祈るような、惜しむ気持ちである。

私にとって「春」イコール「しづ心なく花の散るらん」なのだ。

だから、浮かれるのと同じ大きさで、反対方向にもベクトルが向くのだろう。

そんな風に大人になってからは思ってきた。

 

だが、二十二年前のある日、私は突然に解ったのである。私がなぜ春を素直に謳歌できず、哀しいなどと感じてしまうのか。

二十二年前の四月半ば、桜の花とともに父が突然六十九歳で逝ってしまった。

父とは夜遅くにビールとうどんという不思議な組み合わせで、形而上学的な話からくだらない話まで、いろいろによく語り合った。

運命論者というわけではないが、父を見送りながら、ああ、そうだったのか、と私自身はとても深く納得したのである。

そんなことが中学生の頃からわかっていた訳ではもちろんない。この説明は人様には奇異に受け取られるのだろう。ただのこじつけだろうと笑われるのだろう。

だが私には、ストンと腑に落ちたのだ。

こういうことが起こると決まっていたので、分子や原子のレベルでそれを感じて「春は哀しい」という感覚を持っていたのだ。

 

それに気づいた時に、もうひとつ思い当たることがあった。

私自身に記憶はないが、私が一歳の誕生日を迎える前の春に、父の母―祖母―が亡くなっている。

祖母は、親戚や近所の人達にとても慕われていたそうだ。そんな祖母を見送った人たちの想いが、まだ生後4ヶ月余りの私のあらゆる細胞に「哀しみ」として染み込んだのかもしれない。

そんな風にも考えるのである。

私にとって春は、「哀しくうきうきする季節」であり、落ち着かない。