〜今日という日、明日のために〜 2024年6月6日(稽古の日)

今日は「稽古の日」だそうです。

数え年の6歳の6月6日から習い事(お稽古事)を始めると上達する、と言われているからでしょうね、たぶん。

そういえば、入門する時に先生(師匠、師範)にお渡しする品物やお金、入門料とか入会金に当たるものを何と言うかご存知でしょうか?

束脩(そくしゅう)と言います。

なぜそんなことを知っているのか。

二十四、五から日本舞踊を習い始めました。

自分で見つけてきて、習うと決めました。

それで父に「金封に、入会金って書いて」と頼んだのです。父はあちこちから頼まれるほど字が上手かったので。

「入会金って……。それは束脩って書くもんや」

と父。私は聞いたこともなかったので、「入会金ってお師匠はん言わはったし、入会金でええし」と言いましたが、「それはあかん」と。

と、言うことで後日、束脩と書いてもらった金封をお師匠はんにお渡ししました。

するとお師匠はんは、私が想像もしていなかったほどに感激してくれはりました。「よくこんな言葉を知っていたなあ」「いえ、それは父が……」

不肖の弟子ではありましたが、父のお陰で師匠の覚えめでたく可愛がってもらいました。

では今日の「良かったこと」いきます。

  • 銀行で、少し勉強した。
  • 友人との食事会の日にちが決まった。
  • クーポンでブラックサンダーをもらった。

銀行の担当さんと話していて、勉強になったことは、資産運用したり経済のことを勉強した方などには当たり前のことなのだと思いますが、「債権」は、金利が上がると価値が下がって、金利が下がると価値が上がるということなのです。

説明を聞いて、なるほどなあと。今までにそう言ったことを考えたことすらがありませんでしたから、勉強になりました。

で、そこの銀行のアンケートに答えて、ブラックサンダーを貰いました♪

では今日はここまでで、おやすみなさい。

また明日 (^^)/~~~

春に思うこと

 

春である。

春は落ち着かない。

眠っていた自然が目を覚まし、生命輝く季節。

花粉症についてはさて置くとして、花は咲き乱れ、鳥たちは歌い、木々は力強く芽吹き、明るくなっていく。浮かれるなというほうがムリなのだ。

ただ私の場合、浮かれるのと同じ大きさで、反対方向にもベクトルが向くのである。

ウキウキするのと同時に、どこか哀しくて気が沈む感じもするのである。それを自覚したのは中学生の頃だった。

その頃、私は詩を書いていた。桜や春などはよく使うモチーフだったが、「春」は何か心許ない感覚が付きまとい、哀しみや闇など暗いイメージの詩を作っていた。春の陽光の輝きを、そのまま素直に表すということは思いもしなかった。

大人になってからもその感覚は変わらなかった。それはたぶんその感覚が、思春期独特の心の不安定さというような一時的なものではなかったからだと思っている。

この感覚について、大人になってから思いついたことがあった。

[ ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらん ]

ご存知のとおり、紀友則の歌である。

なんとなくこの歌のイメージに重なると気づいたのである。

明るいのどかな春の日差しの中(うきうきと気持ちが上がる中)、どうしてそんな気持ちを満喫することなく、はらはらと(風もないのに)散り急ぐのか。

なぜ落ち着いていないのか、と諌めるようなニュアンスではなく、散り急がないでくれ、と祈るような、惜しむ気持ちである。

私にとって「春」イコール「しづ心なく花の散るらん」なのだ。

だから、浮かれるのと同じ大きさで、反対方向にもベクトルが向くのだろう。

そんな風に大人になってからは思ってきた。

 

だが、二十二年前のある日、私は突然に解ったのである。私がなぜ春を素直に謳歌できず、哀しいなどと感じてしまうのか。

二十二年前の四月半ば、桜の花とともに父が突然六十九歳で逝ってしまった。

父とは夜遅くにビールとうどんという不思議な組み合わせで、形而上学的な話からくだらない話まで、いろいろによく語り合った。

運命論者というわけではないが、父を見送りながら、ああ、そうだったのか、と私自身はとても深く納得したのである。

そんなことが中学生の頃からわかっていた訳ではもちろんない。この説明は人様には奇異に受け取られるのだろう。ただのこじつけだろうと笑われるのだろう。

だが私には、ストンと腑に落ちたのだ。

こういうことが起こると決まっていたので、分子や原子のレベルでそれを感じて「春は哀しい」という感覚を持っていたのだ。

 

それに気づいた時に、もうひとつ思い当たることがあった。

私自身に記憶はないが、私が一歳の誕生日を迎える前の春に、父の母―祖母―が亡くなっている。

祖母は、親戚や近所の人達にとても慕われていたそうだ。そんな祖母を見送った人たちの想いが、まだ生後4ヶ月余りの私のあらゆる細胞に「哀しみ」として染み込んだのかもしれない。

そんな風にも考えるのである。

私にとって春は、「哀しくうきうきする季節」であり、落ち着かない。