夏になると思い出す光景がある。
昭和五十年代のある夏の日の午後、家に泊まった大叔母(父方の祖母の妹)が玄関の前の階段を降りたところで私に手を振って帰る後ろ姿である。
大叔母は絽だったか紗だったかの薄い紫の着物を涼しげに着て、日傘をさして近くのバス停に向かって行った。
高校生くらいだった私は、こんなに暑いのに涼しそうに着物を着てカッコええなあ、と憧れた。
そのシャンと背を伸ばした薄紫の、凛とした後ろ姿が、今も心のアルバムにしっかりと貼られている。
父方の祖母は、私が一歳になる前に亡くなったので、その大叔母が祖母のような存在だった。親たちは「山ノ内」と言っていたので、私は「山ノ内のおばちゃん」と呼んでいた。小さい頃は「山ノ内」というのが大叔母の苗字だと思っていたが、京都市の山ノ内に住んでいたからなのだった。
明治生まれの彼女は、太平洋戦争で夫(私の祖父の弟、つまり兄弟の兄と姉妹の姉、弟と妹がそれぞれ結婚したのである)を亡くし、子どももいなかった。そのためか甥にあたる父とその家族である私たちの家(宇治市)によく泊まりがけで遊びに来ていた。
彼女の生計はお針である。着物の仕立てと、何人かお弟子さん(お針子さん)を持っていた。私の「十三参り」の着物も、彼女に仕立ててもらったものだ。
彼女の家は長屋風で大きくはなかったが、玄関を入ると奥に向かって土間が続いていて、右側には座敷が並んでいた。いわゆる京都の「うなぎの寝床」である。土間を座敷ひとつ分歩くと簡単な戸があり、開けると台所になっていた。私たちはいつもそこから座敷に上がった。
母は「まち針がよう落ちてたから、あんたが怪我しぃひんか思て」と、私が小さい頃は気になっていたそうである。
私が高校生になった頃には、大叔母は宇治市の病院に通っていた。
一緒に食事をしても、あと一口、お箸の先にちょこんと乗るくらいのご飯が食べられないと言って残すことが多くなった。
そんな時、母からおばちゃんがガンだと聞かされた。その後入院して、そしてとうとう帰らなかった。
母はよく尽くしていたと思う。こまめに病院に行き、身の回りのことを手伝っていた。
私も母に付いて何度かお見舞いに行ったはずだが、その頃の記憶はほとんどない。よく覚えているのは、あの夏の日の午後に、手を振って帰る後ろ姿なのである。
考えればその頃にはもう既にガンが見つかっていて、治療中だったはずだ。おばちゃんからは「痛い」「苦しい」「しんどい」などそんな言葉は一度も聞いたことはなかった。
一人暮らしでさぞ心細かったことだろうと思う。一人で痛みに耐えた夜も何度もあったろう。
だが私にはそんな姿ではなく、盛夏の昼下がりに着物を涼しげに着て、シャンと背筋を伸ばした薄紫の立ち姿を残してくれた。
「明治の女は凄いなあ」と思っている。
夫を亡くし、子どももおらず、甥の家に泊まりにいくことがあるとはいえ、何十年も一人で暮し、ガンになっても入院する以外は一人暮らしをしていた……。
私がそうなったらきっと「痛い〜」「しんどい〜」とすぐ音を上げるに決まっている。
それでも「山ノ内のおばちゃん」の盛夏の着物姿のように、できる限りシャンと背筋を伸ばして生きていきたいと思う今日この頃である。
(了)