夏至の朝

              

  早くから真夏日が襲ってきた二〇二四年の夏至の日、朝起きると大雨でした。その日は、京都四条にあるクリニックに予約を入れていました。

 外を見ながら「こんな雨の日に出かけるのはちょっと面倒だなあ」と思いながら身支度を整えだして、レインシューズを玄関に出しておきました。予定のない日に、家の中で雨音を聞いているのは好きなのですが。

 朝食が済んでから家を出るまでには時間がありましたので、ぼんやりテレビを見ていました。外では小学生が、集団登校をするために集まってきているようでした。子ども達の声、当番の保護者の声、全く聞き取れないそれらが霞のように緩く室内に流れ込んでいました。

 と、突然。

「ピチピチ、チャプチャプ、らんらんらん」

 女の子の元気な歌声が、直線的に部屋の中に入ってきたのです。部屋の壁に突き刺さっていたかもしれません。

 一瞬の後にまた、雨音とテレビの音声だけが戻ってきました。他の子ども達の声や保護者の声は何も聞こえません。

 何事もなかったかのように、歌声の前の時間の流れに戻ったようでした。歌声だけがハッキリと、切り取ったように聞こえたのです。

 夫と顔を見合わせ大笑いしました。

「これやな」

「これ、これ」

 歌声の前後の子ども達の会話も、どんな状況だったのかも、全くわかりません。わかりませんが、私達は勝手に楽しくなったのです。

 根拠があるわけではありませんが、あの歌はネガティブな気持ちの時に出るものではないと思うのです。ですが「楽しくてしょうがない」というような声音でもありませんでした。

 ごく当たり前な、なんの変哲もないことを言っていて、ただ少しだけ声が大きくなったのだというような雰囲気の歌声でした。

 ですがそれは私達の静かな時間の水面に、ポチャンと水滴が落ちたように、平穏な日常の真っ直ぐな横線に、上下に波形が現れたように、そんな風に感じたのでした。

 閑けさを「邪魔された」のではなく、「小さな動き」があったという楽しさ。とても大切な何か。

 楽しさ、それは動きなのですね。

 何故か私は、心電図を想起しました。

 心電図は、横に流れる(描かれる)線に、上下にピコンピコンと波形が現れます。

 生きていれば、このピコンと跳ねている波形があるのです。

 あの女の子の歌声は、私にとってはこの
「ピコン」の一つだったのです。

 ほぼいつも通りの朝、特筆すべきことのない朝、出かける前の静かな時が流れる中に、突然「ピコン」と刺激が入ってきたのです。

 嬉しくなって、夫と笑い合ったことでより楽しくなった、ということもあるのでしょう。

 この「ピコン」、いつでも誰にでもあると思いますよ。表現は「ピコン」ではないのかもしれませんが。

 昨年の夏至の日の朝の女の子の歌声は、とても稀なピコン! とても質の良い刺激でした。

 そんなことを考えているうちに、出かける時刻になりました。

 見ると雨は小降りになっていましたので、レインシューズをしまい、スニーカーで出かけることにしました。

 外に出ると久しぶりに涼しかったことを覚えています。駅に向かう足取りも軽く感じていました。

                

                               (2025.06.20)